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新年の挨拶および職員会議の感想を書き終えましたので、早速有言実行で、読書感想を書いていきたいと思います。
お正月休みの間に読み切りましたのは、荒井 裕樹著 「まとまらない言葉を生きる」です。
著者の荒井さんは「障害者文化論」を専門とされています。こちらの本は2021年5月に刊行されていますが、荒井さんは、昨今、「社会に大きな影響力を持つ人の言葉が不穏になってきたこと」や、マイノリティな立場にいる人たちへの「心無い言葉」を見る機会が増え、「言葉が壊れてきた、壊されてきた」と感じられています。そんな中で、改めて、言葉の持つプラスの力を、荒井さんが出会ってきた方々の言葉を紹介しつつ、テーマに沿って考察していくといった内容となっています。
この、<荒井さんが出会ってきた方々>というのが、障害者運動家の花田春兆さんや、「青い芝の会」の横田弘さん、ハンセン病回復者の山下道輔さん、1960年~70年代の社会運動「ウーマンリブ」で女性解放運動を牽引された田中美津さんといった方々から、戦時中の障害者の方など、抑圧を受ける立場にあった方々です。
どの話もとても勉強になったのですが、特に印象に残った話を紹介します。
「青い芝の会」の横田弘さんが、「地域」という言葉を否定し、「隣近所」だと話されたことが紹介されています。その言葉を受けて、<当時にくらべたら障害者の地域生活は進んできたと思う。…では、世の中全体が障害者の地域生活を自然に受け止めているかと言うと、残念ながらそうとは言えない。仮に「地域」という言葉を「隣近所」に置き換えてみてほしい。「『地域生活』には賛成だけど、でも、うちの『隣近所』はちょっと…」という反応は、やっぱり出てくると思う。>と、荒井さんは記されています。
この話を読んで、正直、どきっとしました。
私も「地域」という言葉を使っていましたが、もっと解像度を上げて考えてみないといけない。「隣近所」と言われて、皆さんはどう思うでしょうか。
ダイバーシティ、インクルーシブといった、耳心地の良い言葉が飛び交うこの頃ですが、内実はどうでしょうか。
隣に住んでいる人がよくわからない人だったらこわい。もしかしたら危害を加えてくるかもしれない。そんな偏見で、より一層「わからないものとは関わらない」「わからないものは排除する」という流れになってきているように感じます。
でも、わからないから排除する、でいいのかな?という疑問もある。
自分が住んでいて居心地が良いのは、「自分に危害が加わる心配が少なく、安心安全だけど、わからない人は排除して、知らんぷりする地域」なのか?「排除した人々」は、どこに行くのか、どうなるのか。自分も、排除される側になる可能性は、ないのか?
そんなことが頭の中をぐるぐるしています。
「出来ないことが多い人は生きる意味があるのか」といった、能力だけで人の価値を勝手に決めつける言葉や、マイノリティの方々が上げる声に対して、抑圧する言葉を、最近本当によく見かけます。
マイノリティはマイノリティのままでいてほしい、声を大きくしないでほしい。なぜならマジョリティである自分たちが大変になるから、面倒だから…そういう目線が、自分にもなかっただろうか…
この本を読んで、自分の普段の考えや態度、マイノリティの方々へのまなざしを、省みる機会となりました。
私の中には、人間の嫌な部分がたくさんあります。まずはそこに気づいて、それでいいんだっけ?と、一歩立ちどまれるようにしていきたいです。
最後に、再び、本で紹介されていた、「青い芝の会」の横田さんの言葉を、引用します。
荒井さんが、横田さんに、「私たちは〜」「この社会が〜」と話すと、横田さんが<それで、君はどうするの?どうしたいの?>と返されたそうです。それを受けて、荒井さんは<大切なのは、「私」という「小さな主語で考えること」>と記されています。
たしかに、「社会」といった大きな主語だと、どうも他人任せになったり、言葉だけになってしまうような気がします。大きな主語って、何事においても、雑な感じがしますね。
ここまでも色々書いてきましたが、私もまずは「私」が、どうするのか・どうしたいのか、から出発できるようにして、自分が出来ることから行動に移していきたいです。
他にもたくさん勉強になるところはあるのですが、長くなるのでこのあたりで。
本当に、色んな視点から、抑圧された人々の背景を考察されている一冊です。荒井裕樹さんの言葉も、難しい用語などもなく、とても読みやすかったです。
皆さん是非読んでみてください。