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こんにちは、堺の立川です! 3月も終わりだというのに、全然暖かくならないことにしょんぼりしています。早く暖かくなってほしい。皆様いかがお過ごしでしょうか。 今回は、渡辺 一史 著 「なぜ人と人は支え合うのか」の読書報告をしようと思います。   まず、前置きとして、私事で恐縮なのですが、昨年9月に、18年共に暮らした愛犬が亡くなりました。本当に大切な家族で、今でも愛犬のことを思い出すと涙が出てきます。一方、愛犬は認知症で、まだ体力があった時は夜鳴きをしたり、排泄がそれまで通りトイレで出来ないなど、介護が本当に大変だったことも事実でした。   少しずつ弱っていく愛犬、出来ることが少なくなっていく愛犬…そんな愛犬に優しく接することが出来ないときも正直ありましたし、愛犬の介護のことで、家族とぶつかることもありました。 老いることや、他人に迷惑を掛けることは、自分自身もマイナスのイメージを持っていたし、出来たら避けたいと思っていました。しかし、愛犬の死を見届けて以来、老いることというか、自分では何も出来ないこと、誰かの助けを借りなければ生きていけないことに対して、マイナス面ではなく、プラス面を探したいと思うようになりました。その時に出会ったのが、「なぜ人と人は支え合うのか」でも取り上げられていた、「こんな夜更けにバナナかよ」でした。   「こんな夜更けにバナナかよ」の方は、まだ最後まで読み切っていないのですが(笑)、重度身体障害者である鹿野さんが、ボランティアを頼りながら、地域で暮らしていくという内容に衝撃を受け、ボランティアの人達はどういう思いで鹿野さんの介助をしていたのだろう?もしかしたら、私が知りたい、「何も出来ないこと」のプラスの側面のヒントがあるんじゃないか…そんな気持ちで手に取りました。 その上で、課題図書として「なぜ人と人は支え合うのか」を紹介されたとき、「これは読まないと!」と思ったことを覚えています。   前置きが長くなりましたが、そういう私自身の思いを抱いた上で読んだ「なぜ人と人は支え合うのか」… 印象的だったのは、やはり鹿野さんの話。私は、迷惑を掛けることは良くないこと、という価値観で生きていますが、重度身体障害者の鹿野さんの立場からすると、「他人に自分の意思を伝えないと主体的な人生を歩むことが出来ない」。渡辺さんが描く、鹿野さんのエピソードを読んで、「迷惑をかける事が良くないことって、本当なのかな?」と、自分の価値観を疑うきっかけになりました。   努力して障害を克服すべきなのは、障害者本人とうよりは、まずは社会の側である、という「障害の社会モデル」も、改めて読むと、その通りだと感じます。 「障害がある」のは、ご本人のせいではない。それなのに、「障害があるから諦めた方がいい」「障害があると難しい」と、健常者が勝手に決めつけたり、押し付けたりしていることが多いのではないでしょうか。   駅のバリアフリー化が、障害者の運動によって、現在は当たり前の光景になっているというのも、お恥ずかしながら本書を読んで初めて知った話でした。エレベーターが無かった当時は、「障害があるのだから、電車に乗って遠くへ行くことは諦めなさい」と言われていたのだろうと思います。それが、エレベーターが設置されたことで、障害者だけでなく、様々な人が利用しやすくなったという事実。「できない」を押し付けるのではなく、「どうしたらできるようになるのか」を考えることが大事ですね。 また、障害者にとって過ごしやすい場所は、誰にとっても過ごしやすい場になるのだと、改めて学びました。   自立とは、自分でものごとを選択し、自分の人生をどうしたいかを自分で決めることである 障害者が失っていた自信を回復し、当事者としての意識にめざめ、自己決定力を高めていくための援助を「エンパワメント」という 「エンパワメント」という言葉は、最近よく目にしていました。私たち支援者は「本人の代わりに何かしてあげる」のではなく、本人が自己決定をするために、本人が理解しやすい形で情報提供をしたり、自己決定に繋がる機会を作ることが役割。支援の本質は、本人主体であるということを、忘れずにいたいです。   「人から助けてもらわないと何も出来ないこと」「人に迷惑を掛けること」に対し、相模原障害者殺傷事件の植松死刑囚のように、「価値がない」と切り捨てる人や、「あわれみの福祉観」「かわいそうな障害者」像から外れる障害者に対する厳しい目線を持つ人もいます。私も、今の仕事を始めるまではそっち側にいました。 ですが、今まで障害者に対して、「何も出来ない」「迷惑をかける存在」「かわいそう」というレッテルを貼ってきたのは我々健常者で、それによって、彼らは自立の機会を奪われてきただけで、本当は、自立の機会や制度さえ整えば、健常者と変わらず生活していけるし、人生を歩んでいけるのではないのか、と、本を読んで気付かされました。   彼らが困っていることや、こうしたいという気持ちを発信して下さって、最終的に皆が過ごしやすい社会になることがいちばん良いと私は思います。また、「『何ができないか』ということよりも『何ができるか』」というエドロングさんの言葉のように、「できる」「できるようにするためにはどうしたらいいのか」というところにフォーカスしていく方が、私は生きやすい社会だな、と思います。 誰だって、いつか高齢者になって出来ないことが増えます。その時に、「迷惑を掛けてごめん…」と恐縮してばかりで、自分に自信のないままなんて悲しいなと思います。「これ手伝ってー!」「ええよー!」くらい、誰かに頼ることが気軽になるような、寛容な社会で暮らしたいです。   こうやって、障害者について考えるだけでも、新しい視点を見つけることができたり、自分が暮らしたい社会ってどんな社会なのか、ということに目が向きます。 もちろん、鹿野さんのエピソードのように、人と人ですから、分かり合えないことや、ぶつかることはあります。でも、ぶつかることを恐れたり、一方的に諦めないで、自分の意思を伝えたり、相手の思いを教えてもらって、落とし所を見つけていくことが、皆が生きやすい社会を作るために必要なのだと思います。   本を読んで、色んなことに気づきましたが、まず、前置きで長々と書いたことに対しては、「プラスもマイナスもなにも、迷惑を掛けてもいいじゃない」という答えをひとつ見つけることができたと思います。 支援者として、色んな人とぶつかることもあるかもしれませんが、対話を諦めず、本人が自己決定するための支援という意識を忘れず、今後も励みたいと思います。   以上、長くなりましたが、「なぜ人と人は支え合うのか」の読書報告でした。