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2か月ほど前、自宅のデスクトップのパソコンが壊れました。 脳梗塞を患ってから3年半、ずっと頭の中がボーっとして“買い変える”なんていう発想は思いもしなかったのですが、最近は少しずつシャキッとする時間が増えてきたので思い切って購入しました。   新しいパソコンには外付けSDDケースを買って、残ったSDDをコピーしましたが、そのフォルダの中に私のファイルがありました。それは私の大量のWordの文章でした。   10年ほど前のほんの2年間、専門学校で社会福祉士養成通信課程の専任講師をしていた時、ほとんどの学生さんは福祉系の事業所で働いていて、私と学生さんとはメールでやり取りしていた記憶がありましたが、多分記録としてバックアップを取っておいたのだと思います。   “これも完全に処分しないといけなかったなあ”とか、“今は文章打つのも難儀しているけど、10年前はこんな文章打ててたんや!”とか、“随分偉そうに書いているな…”とか、“脳梗塞になるって分かっていたら、もう少し違う書き方していたのに…”とか、大反省しつつ画面を見ていました。   ペラペラと見ていましたが、私が長々と書いた文章の一文がふと目に留まりました。 それは、学生さんからの“ソーシャルワークの価値”についての質問に対する私からの返信でした。   「今回のご質問で**さんは『価値』について『利用者との間で信頼関係を築いた上で…』と考察されていますが、では、なぜ利用者との信頼関係を築く必要があるのでしょうか。どうしてワーカーが必要だと思うことを利用者に指示・命令することより『信頼関係』を大切にするのでしょうか。この問いを突き詰めていくと、『価値』に行き当たります。」   私が「障害当事者」になった今、10年前の文章を読んでみて「ソーシャルワークの価値」とは何やったんやろ?と、全部の文章を読み返してみたけれど、高次脳機能障害のせい(?)で全然分かりません。 それで、「価値」の部分は本を読む、とかして今度もう一回考えてみることにして。   私はその一文の「指示・命令する」の言葉に深く考えさせられました。   「指示する」という言葉の意味は、国語辞書を引くと「指さすように示すこと」のほかに、「指図する」や「命令する」という意味になるようです。   利用者になった元ソーシャルワーカーの私は、「指示する」という言葉に今も昔も大きな大きな違和感があります。 もし私がソーシャルワーカーなら、利用者さんに「指示する」なんて言わない。 それは、何よりもワーカーと利用者さんとの “信頼関係”が一番大切だからです。   そして、今の私にはよく思い出せないけれども、きっとその延長線上に「ソーシャルワークの価値」の本当の意味が繋がっていると思っています。   元ソーシャルワーカーとしての私のほんの小さな、小さな矜持です。